昆布の歴史

昆布の歴史

昆布の歴史  について紹介します。日本人は古代から海苔やわかめなどとともに昆布も食べていました。そのような昔、まだ現代のような食物の貯蔵方法がまったくなかった時代、コンプ、ワカメ、ヒジキなど、天日で乾燥させるだけで容易に保存食となる海藻は、非常に重要なものだったのです。

昆布の歴史 いくさの準備は昆布類で

日本人は古代からノリやワカメなどとともに昆布も食べていました。そのような昔、まだ現代のような食物の貯蔵方法がまったくなかった時代、コンプ、ワカメ、ヒジキなど、天日で乾燥させるだけで容易に保存食となる海藻は、非常に重要なものだったのです。これらの保ん仔食は、戦時や飢仙陛の時に利用されたため、戦国時代の大名や領主は、そうした時に備えて食料を貯えました。これらの保存食は、戦時や飢饉の時に利用されたため、戦国時代の大名や領主は、そうした緊急時に備えて食事を蓄えました。

保存食には海藻のほかにも、もち、肉の燻製、干し魚、そして塩や味噌などがありました。そうした保存食料を使った陣中料理のひとつしひや汁というものがあります。これは凍豆腐、煮干し、味噌、たまりなどの煮汁を樽に詰めて戦場に運び、干し海藻にそそいで食べるもので、いわば現代のインスタント食品のはしりともいえるものです。

藻は煮汁を吸収して膨らむので、満複感を得られるすぐれた野戦食でした。これは今日の栄養学から見ると、とりもなおさずカロリー源の穀額のほかに、食物繊維やミネラル、ビタミンなどの補給となっていたのです。

中世の昆布料理

古代が終わり、農耕技術が全国に浸透したころ、日本は平安時代に入ります。しかし、このころはまだ米の収穫量は少なく、野菜の栽培法も発達しておらず、海藻は非常に貴重な食品でした。

承平年間(931~937) に編まれた、日本で最初の百科事典である「和名抄」という書物の中にも、保存食として、21種の海藻が記され、それらが食膳にあがっていたことをものがたっています。

また、同じころ(10世紀初期) の宮中作法や各種の律令細則を集大成した「延書式」という書物には、数種類の海藻を用いた4種の料理が紹介されています。

それらはコンプや二ギメ( ワカメ)、ムラサキノリ(アマノリ)、トサカノリ、ミルなどの海藻を米、糖、くさ、あら醤、醤、酢、塩などとともに調理した「海菜」、ムラサキノリ、コルモハなどを味噌、あら醤、酒、塩、しょうがなどで調理した「汁物」、そしてアラオ、オゴノリ、ヒジキ、ツノマタを糒糖、黒大豆、小豆、くさ、塩、酢、醤、酒、味噌、ごま、からしなどととにも煮込んだ「好物」および、トサカノリ、ツノマタをゆでて味付けした料理「ゆで菜」の4つの料理であり現代の佃煮や海藻の味噌汁などに相当するものです。

さらに平安時代中期の「宇津保物語」には天皇への献上品のひとつとして、壺入りの甘海苔(ムラサキノリ・ノリ) があげられます。これらの史実は、平安時代にも海藻が多く出まわっていて、食品としてすでに高い評価を得ていたことがうかがえます。

その後、鎌倉時代には仏教の伝来とともに精進料理としての海藻料理が発達し、料理のほかに菓子や加工品とされ、室町時代には茶会料理などにも海≠操が利用されていたようです。
こうして、海藻料理は時代がたつにつれて、しだいに工夫され、洗練されていったのです。

昆布の城

戦国時代に入ると、心ある武将はつねに海藻の備蓄を忘れませんでした。こうした工夫のひとつとして、築城の際、彼らが城壁などに保存食を埋め込んだのは有名な話で、たとえば、加藤清正の熊本城には、城壁と小う城壁にコンブやアラメが塗り込められていたといわれています。

その加藤清正以上にこだわったのが、松永弾正久秀です。彼は三好長慶に仕え、三代将軍・足利義輝を自害に追い込んだ武将ですが、彼が築いた奈良の多聞城には、コンプ、アラメ、ワカメ、ヒジキなどの海藻が3年分も貯えられていたということです。

当時の文献にも海藻の重要性が記されており「武則要秘録」には、兵糧として昆布顆を細けいこうかく刻み、醤油で煮しめて携行する、とありますさらに、この時代にさかんに行われたであろういくさの出陣式に、コンプが必ず使われていたことは先に述べたとおりです。これほどまでに戦国武将たちに信頼されていた海藻は、よほどその効用がすばらしかったのでしょう。武将ばかりでなく、江戸時代になると、海藻類は、天明、天保の飢饉の際の非常食として珍重され、数多くの庶民の命をも救ったのです。

昆布 食品の歩み

石器時代から弥生時代の日本原住民が、海藻を食べていた証拠はすでに述べましたが、これらはおそらく、魚などと煮たり、日干し、つまり素干し品の形で利用していたと思われます。この素干し品は、大和朝廷時代(4四世紀以降)には、すでに重要な食品として、ほかの海産物や穀類などといっしょに利用されていたようで、以来、奈良、平安時代を経て、戦国時代にも素干し品が備蓄され、必要なときには煮物として食べられていました。

しかし、いずれにしろ海藻食品は貴族階級のもので、一般庶民の口にはあまり入らぬものでした。いっぽう製品は多様化し始め、あぶった青ノリを混ぜて作った青ノリもちとか、アラメを混ぜて鷹の羽に似せたカマボコやノリ巻きなどもありました。

当時は、菓子食品も作られましたが、海藻菓子では昆布が主材料だったといわれています。酢に浸したあと、やわらかくさせてからいろいろな型に結ぷ、結びコブも、このころ作られ始めました。そして、江戸時代に入ってからは、とくに大阪附近で、現在私たちが食べているような昆布食品が作られるようになったのです。

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