日本人 昆布 の関わり方

日本人 昆布 の関わり方

日本人 昆布 の関わり方について書いてみようと思います。だしに、佃煮に、煮物にと、コンプは日本人の食卓になくてはならないもののひとつです。この昆布と日本人のつきあいは、いったいいつ頃から始まったのでしょうか?歴史書に昆布が顔を出すのは、「古事記」、「日本書紀」の時代にさかのぼります。

日本人 昆布 古くから関わっている

だしに、佃煮に、煮物にと、昆布は日本人の食卓になくてはならないもののひとつです。このコンプと日本人のつきあいは、いったいいつ頃から始まったのでしょうか?歴史書にコンプが顔を出すのは、「古事記」、「日本書紀」の時代にさかのぼります。

両書にみられる「海布」が今の昆布にあたるとされています。「古事記」の成立は西暦八世紀初期ですが、日本の原住民が日本列島に住み始めたのは、少なくとも紀元前約1万年前といわれていますそのような古代、まだ日本で稲作が発達していなかったころ、当時の日本人は自然に育っている木の実や野草や海藻を採集したり、鳥獣や魚類をとって食物とする食生活が中心でした。

考えてみれば、魚をとるついでに簡単に採集でき、しかも、あまり手を加えないで食べることができる海藻も、常食のひとつとなっていったのは、ごく自然なことでしょう。古代日本人の食生活における海藻の存在は、今まで発見された古代遺跡からも明らかになりつつあります。

たとえば、縄文・弥生の遺跡が多数発掘された島根県鰐村の洞窟では、魚の骨や貝殻とともに、コンプの仲間のアラメやホンダワらしい海藻の痕跡も検出されており、古代から海藻を食べていたことを裏付けています。
現在も、この洞窟穣の周辺は、良暫貝なっカメやノリの産地として有名です。

また、青森県の亀ケ丘泥岩望追跡では、縄文式たは土器の中からワカメなどの海藻が束になって発見されています。縄文時代から4~5世紀まで、私たちの祖先がどのようにして海藻を食べていたか、残念ながら具体的にははっきりとわかっていません。

しかし、昆布などの生の海藻を煮て食べると同時に天日干しなどの簡単な方法により、保存食として利用されていたのはほぼ間違いないと考えられています。

私たちの祖先が、農耕時代を迎えるまで、海藻を常食していたのは、それが毒のあるものではなく、むしろからだのためによい健康食品であるということを体験的に知っていた、生活の知恵だと思われます。

昆布の語源

昆布は現在でも北海道でそのほとんどが生産され、アイヌ人たちも、苦からコンプを常食していました。こうしたコンプの語源や昔から北海道でコンブがたくさんとれたという史実から見ると、あんがい、日本で最初にコンプを食べ始めたのはアイヌ人であり、それを縄文人たちがまねたのかもしれません。

また、北海道には蘭越町昆布川温泉、ニセコ町昆布温泉、ラウス町昆布浜など、コンプにちなんだ地名もいくつか残っており、この土地とコンプの縁の探さを物語っています。

縁起物

結婚の結納品にコンプが含まれているのは「こんぷ」を「子生婦」とあて、子宝がさずかることを願ってのことです。また、正月の鏡もちの上にコンプをのせるのも、よく見られる風習です。それは「よろこぶ」のこぶ」をコンプにかけたのだという説もあります。

今まで述べてきたように、日本列島では原住民の時代から海藻を食べていたことは明らかなのですが、三陸海岸を除くと北海道にしか成育しないコンプが、なぜ日本全土に広まったのでしょうか。大和朝廷の成立から奈良時代にいたる7~8世紀ごろには、すでに北海道南端の江差や松前港から北陸地方に船で運ばれていました。

そして、従来は主にだし用として使われていた昆布が、とろろ昆布やオボロ昆布などとして食べられるようになりました。

室町時代の14世紀ごろになると、敦賀に荷揚げされるようになり、そして、商業の中心地大阪に定着しました。そして、佃煮を中心とした保存のきく製品が重要視され、多くの量のコンプが加エされるようになりました。

江戸時代後半の18世紀の終わりごろには、九州西部から、沖縄まで広まり、中国にまでも渡ったのです。昆布は以上のような経路をたどって日本全国に広まり、今日の私たちの食膳に並ぶようになったとされています。これは、昆布がすぐれた食品であることが第一の理由ではないかと考えられます。おいしくて、栄養のあるものは全国共通ということでしょう。

日本人とコンブ